母親大会の原点

母親大会のはじまり~母親運動の歩みは日本女性運動の歩みです~

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United States Department of Defense(either theU.S. Armyor theU.S. Navy) -Library of Congress, パブリック・ドメイン,リンクによる
1954年、アメリカの水爆実験でマグロ漁船員の久保愛吉さんが死の灰を浴びて亡くなりました。広島、長崎につぐ三度目の被爆に日本の母親たちは「子どもを核戦争の危険からまもろう」と訴え、1955年に世界大会が開かれることになりました。それに先だち6月、第1回日本母親大会が東京で開かれ、日本各地の炭鉱や農村から1円・2円と集めた募金で送り出された2,000人の母親が集まりました。
戦争惨禍や苦しい生活を訴えた「涙の大会」で世界母親大会の代表14名が決まり、北海道からは多嶋光子(炭鉱主婦の会)さんら二人の代表が選ばれました。

母親大会のスローガン

第1回日本母親大会では、「もはや私たちは、一人ひとりばらばらの弱い女ではありません。私たちはどこにあっても、母親の名において勇気を持ちあいましょう」と宣 言しました。fig_main2
「ひとりぽっちの母親をなくそう」と呼びかけた大会は、だれでも自由に参加できる女性最大の話し合いのひろばです。
そこで出された平和や子どもを愛する母親・女性の要求を、各地域、職場の連絡会が、力を寄せあい実現めざして活動してきました。
北海道では1958年4月、札幌市で2,000人が参加して第1回北海道母親大会を開きました。
そして、母親・女性の願いから子どもを守るための生ワクチンの緊急輸入、ポストの数ほど保育所を、学校給食の脱脂粉乳を生牛乳に、高校増設や学級定数削減、物価値上げ反対、公害、働く女性、介護・福祉の問題、平和憲法を守るなどたくさんの運動にとりくみ、「母親が変れば社会が変わる」と今まであゆみつづけてきました。

母親大会のあゆみ

1995年7月、スイス・ローザンヌで開かれた世界大会には68ヵ国1,060人の母親が集まり、そこでの日本の被爆者代表の訴えが世界の女性の胸に深く刻まれました。
この世界大会に寄せれたギリシャの詩人ぺリディス夫人の詩の一節から、「生命を生み出す母親は 生命を育て 生命を守ることを のぞみます」のスローガンが生まれ、今もすべての母親・女性の心をとらえ、連帯のきずなとなっています。

このスローガンを中心に母親大会は、母親・女性の願い、子どもたちのしあわせのために、思想・信条を超えていろいろな立場の女性たちがつどい、みんなで知恵を寄せあい励ましあい、明日への生きる勇気をつちかう大きなひろばです。

母親大会・母親運動について

「母親」それは母性をもつすべての人を対象にした呼び名です。ですから、未婚の人も、結婚して子どものない人も、すべて含まれています。
「よりよく生きたい」「人間らしく暮らしたい」そんなあたりまえの願いをもった、あたりまえの女性たちが、小さなため息から出発し、思いを話し合うために毎年集まっています。
21世紀を平和の世紀に!の願いは、今、世界の多くの人々の願いとなっています。だれもが安心して生きられる社会、子どもや若者のひとみが輝く未来を、平和で豊かな社会めざし、みんなで母親大会に集まりましょう。

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